ヴィパサナーの祈り
ある日の夜の瞑想で、その指導役である僧がいった。
「気持ちの衣を脱ぐのだ」
はっとした。こわいのだ。
考えるのでなく、感じるのだ、と言っていた。この2年間、同じ言葉をもう何度自分に言い聞かせてきたことだろう。
静かな森の中にたたずむこの異国の寺で、いま、僧の説明が妙に臓腑に落ちてくる。
「現場を取材する記者のように。あなたは意識にマイクを向けている記者だ。意識から常に距離をとることだ。意識にのぼってくるものをそのまま観察し、感じよ」
「“物語”に迷い込んだままもどってこられないとしたら瞑想は失敗しているといえる。物語がはじまったらそれを観察していることを常に思い出すのだ」
「とらわれそうになったら、呼吸に意識を」
そんなことしたら、死んでしまう。と思った。
できなかった。
だから、瞑想中は、いつも、僧侶のいう「物語」に没頭してしまうんだ。
次から次へと思考に流れ込んでくる過去の記憶、過去の記憶から脳が作り出す、あるいは、もしなにかであったとしたらという仮定から生まれる空想、切望する願望から沸き起こる甘美な妄想。
それは、幼い頃からなじみ親しんできた私の古い習慣だった。
長い長い人生の中で、私をずっと守っていた。 痛みから。
私が感じないように、と。 痛みを、辛さと、耐え難い苦しみを、感じないですむように私にかけられた「麻酔」。
私が自分でかける魔法の薬。
それは、とてもよく効いた魔法だ。
ああそうだったのだ、とまた糸がほどける。
指導役の言葉のとおり、体の五感に思考をさまよわせれば、たちまち体の痛みや退屈さがその場を占める。すると、意識はまたたくまに「物語」の世界へと、熟練した船乗りのように迷うことなく私の意識の舵を向かわせる。
私の、今、この場にとどまろうとする「意識」はたわいもなく吹き飛ばされる強い力。
だからこそ、私は生き延びできたのだ。
こどもの私、若い私、自分によって甘美な夢の中へ深く深く眠らされ、痛みを感じないように。
できない、と思った。
すべての衣をぬいで、今さら、やらわかな「私」を眠りから冷まし、掴み上げて残酷な外気にさらけ出すなどできなかった。
そんなことしたら、死んでしまう。
その瞬間を思い浮かべるだけで圧倒的な恐怖に頭が真っ白になるようだった。
こどもの私にとって、誰にもかまわれずに、じっと静かにしていること、一人で時間をつぶしていること、いつからか、教室の片隅で静かに気配を消しているのは、なんとたやすいことだったか。
その麻酔を自ら断ったとき、ほんのつかの間の痛みが生きた体を貫き、どうしても耐えられないのだ。
横になって目を閉じる瞑想がある。
すやすやとあちこちで聞こえてくる寝息を聞きながら、目を閉じていること、横になっていることすら苦痛になってきて、なんども跳ね起きそうになる。
人生で、はじめて、静かにじっと動かずにいることに、激しい苦痛を感じた瞬間だった。
心のどこかで、溢れてくる躍動の疼き。
喜び。 やっと開放される、と聞こえたかもしれない。
眠らされていた心の、目覚めた最初の声だった。
※2015年4月ヴィパサナー瞑想にて