階段のまんなか

東南アジアに渡った年ついに自分の心と向き合わざるを得なくなった。心理カウンセリング、ヒーリング、レイキ、瞑想など。最近は思いつくままいろいろと。

本当の自分になるために 11 - やりたいこと

自分へプレゼント

人にして欲しいことがあったら、それを自分で自分にしてあげる、という言葉も、案外、自分への大きな"許し"だ。再びf:id:mokomarutan:20151113003607j:plain、2013年の12月の誕生日、私は大きな象の背に象使いの服を着て、裸乗りでまたがっていた。

 

本物の象の背に乗る、なんて、たぶんずっと経験できないと思い込んでいた夢、それを、自分だけのために誕生日プレゼント。以前の私だったら、たぶん、実行に移すことはなかったかもしれない。

 

象乗りツアーそのものが象への虐待になっている昨今、それだけは避けようと、事前調査で見つけたのは、一人の大人客に対して、象一頭と付き添い(本業の象使い)のみがつき、籠はいっさいつけず、象には裸乗りが決まり、という象の保護施設が主催する象使い体験ツアーだった。

 

象の背にのるとほのかに暖かい体温が伝わる。生きている。肌は見かけと違ってやわらかく弾力があって、驚いたことにさらっとして清潔で匂いはまったくしない。それもそのはず、毎日、一日二回、川まで水浴び(象には必要)に行っているのだから。(その水浴びの時間を使ってうまく観光客を背に乗せるツアーだ) 

 

いくら大きい体とはいえ、朝から夕方まで、鞍も籠もない背に直接乗り続けるのは、けっこう疲れる。それ以上に、暖かい生き物の温もりと、筋肉の動きひとつひとつが体に直接伝わって、私という全体がなにかでいっぱいに満たされる。こちらの動きも象に伝わり、何もいわない象使い(f:id:mokomarutan:20151113003607j:plainの少数民族の人)がひっそりと象に寄り添って歩く山道、これほど私が喜ぶプレゼントもなかった。2日はあっというまに経って、ずっと私を乗せてくれていた象が、最後にじっと動かず私のほうを見ていた穏やかな目は、今でもいつまでも私の目に焼きついている。 f:id:mokomarutan:20160131162857j:plain

11月のある日に、ネットの"あの人"が私の誕生日を二人で祝おうというチャットを送ってきたとき、はっきりとそれを退ける強さも執着も、私にはまだ手離すことは出来ていなかった。けれど、同時に、もう二度と自分の大切な日の幸福度を他人の手には委ねない、とも心に決めていたから、自分へのプレゼントツアーは断固として予約した。

だから、誕生日の前日から日中は象の上で、インターネットにはいっさいつながっていない。(ネットのつながらない環境だった)

 

苦しさと楽しさの両立

それでも、その日ツアーを終えて、市内にもどると、これも自分プレゼント用として予約していた、少しだけ高めのホテルにチェックインして、ワインを飲みながら、チャットでその人にメッセージを送り、オンラインで待ってみた。

 

あと一時間ほどで誕生日がもうすぐ終わる頃、ネットを切った。ツイッターには現れてはいたものの、チャットには入ってこなかった人。予想はしていたと思うし、そして、期待もしていたと思う。

 

「きっといつかは変わってくれる」という願いは、「他人は絶対変わらないのです」と言われたからといって、そう簡単に手放せない。そう思えないのではない。むしろ理屈を理解して納得もしているのに、体が言うことをかない、そういう感じなのだ。「いつか変わってくれるかもしれない」と気がつけば考えている。

 

新しいフェイスブックだろうが、ツイッターだろうが、どういう方法をとっているのか分からないけれど、その人は必ず私を見つけ出した。その追跡は執拗だった。そして、見つけたとしても、黙って静かに見守るとかいうことは念頭になく、見つかれば、それを必ずなんらかの手をつかって、私に知らせてくるというのは、とても悪質に感じて、そのたびに無力感で震え上がった。

 

相手に自分を依存させるため、相手の興味を引くことにかけては、あまり見たことがないほど上手い人だった。こちらの趣味や、興味のある事が何であるかを知ると、徹底的にその話で「ファン」をしてくる。「してくる」という言い方がぴったりくるように、一途に毎日毎日、自分を賞賛しに現れる人というのは誰でも嬉しいものだ。本当に最初は夢心地のような気分を味わう。ツイッターもフェイスブックも作り直したとき、かなり慎重に相手を選ぶようになってはいても、最初は礼儀をつくして近づき、こちらの承認要求をくすぐるストロークを繰り返してくる相手に対して、私はまだ「易しさ」を捨てることができなかった。優しいのでない。"易しい"だ。(担当のカウンセラーの言葉から)

 

諦めてフォローや承認を返すと、やがて、今度は、私がよく相手をする人と親密にからみ始める。はじめから偽アカウントなので、誰からどんな勘違いをされるかなどはまったく意に返さない。まもなく、私のタイムラインには、この二人がまるで恋人同士であるかのような会話ツイートのRTで埋め尽くされるようになる。

これが、この人のやり方だった。ルアンプラバンに行ったりと、一時はインターネットを一切辞めることを考えたのは、これが理由だった。つきまとわれることで逃げ道がなくなる、恐ろしいダブルバインドだと思った。

 

苦しい毎日と並行して、それでも、大きくて暖かい生き物が、長い鼻をのばして草を食べながら、文字通り道草の山道での記憶を思い出すたびに、お腹のあたりが暖かくなった。楽しかった。そしてそれが弾みになった。やりたいことがあったら、もっともっとなんでもやってみようという気持ちに弾みをつけた。

 

ヘンに聞こえるかもしれないけれど、苦しい気持ちと楽しかったり嬉しい気持ちは、同時に心に存在できることに、本気で驚いていた。少なくとも、私は、感情というのは、楽しければ楽しさ100%、もしくは、苦しいときは苦しいが100%、というものだと思い込んでいた。それが、この頃から、だんだん、嬉しい楽しい気分と、苦しい辛い気分が両立している、両立するものなんだ、と体感するようになっていた。それは気づくたびに不思議な気分だった。

 

やりたいこと

もっと、腰を落ち着けて、自分と向き合いたかった。自分と静かに向き合えることで、何かできないだろうか、と考えていた。

できればインターネットの依存もなんとかしたかった。日本のセミナーで知り合った人たちが、次々と、いろいろなセミナーや集まりに参加する写真をフェイスブックで見ていた。興味を惹かれるものがあっても、さすがに、f:id:mokomarutan:20151113003607j:plainから定期的に日本のセミナーに参加することはできない。八方塞がりなのかな、と、いつものネガティブ思考がよぎる頃、"なにも日本だけでしか何かができるわけではない、今いるf:id:mokomarutan:20151113003607j:plainで出来ることを探せばいい”、ということにやっと思いつけた。

 

とはいえ、想像つくのはセミナーっぽいこと、しか思い浮かばなくて、とりあえずインターネットで、f:id:mokomarutan:20151113003607j:plainで体験セミナーみたいな検索ワードを使う。すると、すぐに「瞑想」という言葉の羅列が大量にヒットした。仏教国f:id:mokomarutan:20151113003607j:plain、特に北f:id:mokomarutan:20151113003607j:plainで、外国人向けの英語の説法で組んだ瞑想プログラムは、バックパッカーの間でも有名なのだった。

 

瞑想には最初から心が動かされるものの(ダイブする環境にうってつけのように思えた)、私は瞑想はまったく素人だった。知識も経験もなにもない。さらに悪いことに、思い浮かぶといえば、日本の座禅で、少しでも動いたら体罰が待っている、そんなイメージしかもっていない。まして、どうやら、何日も誰とも言葉を交わさない瞑想というものが中心らしい。そこで、ほかに何か、ないだろうかと探していて、見つけたのが、レイキトレーニング、というあるレイキマスターのサイトだった。

 

そういえば、日本でセミナーを一緒にした人の中で、ヒーリングというものをする人がいたけれど、レイキという言葉があったのではなかったか、と思い出す。やっぱりそうだ、あの、日本発祥の霊気だった。

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本当の自分になるために 12 - 50人の共同生活
本当の自分になるために 10 - 人生脚本を繰り返す(後)
本当の自分になるために 目次

 

 

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