階段のまんなか

東南アジアに渡った年ついに自分の心と向き合わざるを得なくなった。心理カウンセリング、ヒーリング、レイキ、瞑想など。最近は思いつくままいろいろと。

あなたは今幸せ?

「あなたは今幸せ?」

そんなメッセージ、f:id:mokomarutan:20160211233807j:plainで仲良くしてもらっていたある女性からのフェイスブックでのメッセージだった。

英国出身なのでもちろん英語で正確には are you happy now? だったんだけど。

 

毎回のメールに書かれている気がするから、単に彼女のクセなのかもしれないし、なにより私がフェイスブックは友達承認をしたあと、まったくといっていいほど利用していないから、落ち込んでるのかなんなのかは、まあ人からは計り知れないのは分かるし。

そして、そう書かれることで思い出してもらってるって感じられるのは暖かい気持ちにもなって。

 

私はいつも幸せでない人とも(無意識にでも)思われている気配はあるな、とも思う。

 

これは、私がいままで蒔いてきた種、いわば私の仕掛けでもあるのは、もうすっかり分かってしまってる。

気持ちを共有しあった9ヶ月間。彼らは、私がずっと孤独に生きてきたことを、私の口から聞かされ続けてきたわけだし。

 

私って、こんなに不幸でさびしくて、誰とも繋がれなくて、でも一人でずっと我慢して耐えてるんだよ

お母さん

 

これが私の仕掛けの声ってところかな。

 

お母さんをずっと見続けて、彼女の愛を得るべく身に着けた私の仕掛け。

 

メールの彼女は私よりずっと若くて、確か30代半ばの頃だ。私がいる頃から付き合い始めた男性と、今年婚約、そして妊娠というとても幸せなメールに書かれていた。

 

結婚や妊娠、恋人ができた、新しい仕事が成功した、そんなニュースに比べたら、私の近況のメールは幸せからは程遠いように、確かに聞こえなくもないかな。

30代の私は確実にそう考えただろう(汗)

 

あの頃の私は、愛する人に愛され、暖かい家庭と豊かさを手に入れて生きる、というなんとも漠然とした願望があって、特に、愛されたいという願望は強くて、それ以外は見えていなかった。

その願望は常に漠然としたものだった。

 

幸せのかたちはひとそれぞれって言葉、なんだかよく使っていた気がするけれど、本当の意味はもっと早く知りたかったね、私(やっぱりまだすこし恨み節)

 

ひとそれぞれの幸せは、その人だけのものなのだから、誰にも許可を求める必要もない。だからこそ、そこにあるのは、自分(の判断)を守るという厳しさが存在する。

 

厳しい、と感じるのは、今まで人の許可や判断や助言、さらに(幼い頃に受けた親からの)教育に抗って自分を守ってきたことがない私が、今、自分(の判断)を守ろうとすればどうしても生まれる、圧迫感とか抵抗感を“壁”と感じるからと思う。

そして、それは自分がつくった壁、脚本とかコンフォートゾーンとかいわれる、でも結局自分の中に起こっていることだ。

だって、絶対やめろって、私、手かせ足かせはめられてるわけではないもの。

 

まっすぐに生きてきた人はきっと壁とは感じることなく、あたりまえのようにそこを通りすぎていくものなんだろうか。

でも、そう考えることが、もう人と比較してるかもと気づいて、心の中で苦笑い。

 

私の中に魔物がいるんだ

なんだか、いろいろなところで出会うたくさんの物語が一本の線でつながるような気づきが、またやってくる。

 

やっぱり幸せだよな私、ってそこでやっぱり思う。

 

過去の私の苦しみは私にしかわからないから、これを誰か他人に説明しようと思っても、たとえ日本語だろうとできない。

あの、“頭の中に響く声”にがんじがらめだった過去の自分を思い出すたびに、いま手にしている自由がどれほど嬉しいか、誰に説明することができなくても、私が一番よく知ってればそれでいいんだろう。

 

私の中の魔物は、私がいつも見つめ続けてる。

あれ、そうしたら、なんだかちょっとだけ魔物ちゃんが気恥ずかしそうにしてるように見える…かな?

 

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