本当の自分になるために 7 - 怒れる心への扉
全てを受けてとめて、肯定してくれるカウンセリングというのを聞いたことがあるかもしれない。
ほとんどのカウンセラーのブログでも、また私が受けたセッションも、基本的にこちらの話はカウンセラーは否定しない。けれど、3人目のカウンセラーは私の話のすべてを肯定して聴いてはいなかった。むしろ、否定されることが多かった気すら、今はしている。
否定される時、当然、心が苛立つ。特に、それまで、多少、カウンセリングの知識を得ていたり、何回かセッションを経験していたりすると、特にかもしれない。
レイプだなんて、そんな大げさな
ただ、鍵をかけた机の中を親に見られただけなのに
それに、私の子供時代は、それほど悪いものじゃなかった
そうずっと思って生きていた。
それを言葉にしてみても、けれど、カウンセラーから同意の言葉を得ることはなかった。
怒れる心への扉
「それじゃ、もこまるちゃんが可哀想だよ」
その初回のカウンセリングで、とめどなく話す私に、やがてそんな返事が返ってくる。それを、誰に対して言っているのかと、思い巡らすことすらその時の私はまだなかったと思う。それは私のことだ。そう、私可哀想だったんだよ、と相手が私の肩をもってくれることに、ただ満足する。
聴いていてくれる、ということだけはよく分かるから。
心の負の連鎖は世代間に渡って受け継がれる。その鎖を断ち切り、連鎖を解きほぐしていく、というカウンセリングスタイルは、自分を中心に置いて、一枚の相関図をつくっていくようにカウンセリングして始まる。だから、その過程で、その血縁者とのすでに忘れてしまっているような子供の頃の出来事がひとつひとつ浮かび上がる。
2度目のセッションとなった日、私は日本に一時帰国していてそのカウンセラーと初めての対面セッションで、もう初めてでない相手、でも顔も合わせた安心感が手伝って、リラックスして、たわいもない子供の頃の出来事を、思い出し笑いしながら話している。するとその人は、そんな時、どちらかといえば無表情に、やや固い横顔を見せながら「私の相関図」とも呼べる一枚の紙に、なにか短く書き入れていった。
話したいことはたくさんある。聴いて欲しいことはたくさんあった。
だって、分かってほしい。私はこれだけ苦しんできたんだから。誰かに分かって欲しいからこそ、こうしてカウンセリングを受けているのに。
それが、なにかの拍子に、まるでひとつひとつの言葉の揚げ足でもとるかのように、一言一言カウンセラーが反論してくるときがある。ひとたび、そんなやりとりに入ると、私はさらに躍起になって相手を同調させようと、よけい熱心に話し出す。
苛立ちが声に出始めたときだった。
「それじゃ、もこまるちゃんが可哀想だよ」
まただ。それは私のことだ。分かってる。でも…
見た目は小柄で、もの柔らかい雰囲気を持つその女性カウンセラーは続ける。
「可哀想ですよ。だって、この状況でこんなにがんばってきたんですよ。もこまるちゃんは。小さいちゃんがこんなにがんばってきたのに、"そんな風に言う”なんて可哀想ですよ」
「…っ」とふいのことに、それまでまくしたてていた言葉を失う私。
そうだった。必死だった。ただ必死だった。
そうだ、そうだった、やっとそれを分かってもらえた、そう思うよりはやくその場につっぷしていた。
思い出していた。圧しつぶれそうなほどの苦痛、悲しみが一気によみがえってきたかのようだった。このときは、ただ、それだけだった。なぜか、笑い話にしようとしていた私の、本当は、ひどく悲しくて辛くて悔しかった、そして、あまりに遠くに締め出した感情を、思い出していた。
それは初めて、出てきてもいいよ、という許可だったんだ、と後で気づく。
そういう風に感じることはいけないことだとも思っていた、その事実すらこの時まで気づかないでいた。
抑え込まれていた気持ちだった。
悔しかった気持ち。それは、ずっと持ち続けるのはあまりに辛い。そして閉じ込めたのか。"自分が悪かった”という合理化した思考とともに。
猛然と湧き上がるもの。怒りだ。
自分は悪くなかったのだという安心感を、獰猛な力であっさり押し流すのは、怒りだった。涙とともに、その、湧き上がってきた怒りにいち早く気づいたカウンセラーが、「気持ちを言葉にしましょう」という。
そのとき、やったのはロールプレイだったと思う。この女性が得意とするものだそうだ。なるべく、感じた気持ちを感じたまま、言葉にしていくことで、頭の中のインナーチャイルドが聞いているから、と。
ここの相談室で得た中で、人生で一番大きかったといえば、とにもかくにも、怒りの吐き出し方法だ。その後に、あらゆる場面で、私が逃げたくなる自分の気持ちを見つめようとしたときの、それは大きな手助けになってくれた。
そして、自分がどれだけの怒りを抱えて生きてきたことに、気づくことにも。