本当の自分になるために 6 - 動き出した体(後)
人の心(脳)はとても不思議と思う。やらなければ、と思うと出来ない。でも、やってもいいとか辞めてもいいと思うと、またはそう言われると、急になんだか動ける気がしてくる。自分だけを楽しませるための旅行をしていい、そう思えたら、急に軽くなった体。同時に、もう10年以上も、ただ純粋に休暇を楽しむために旅行に行くことがなかったことを、 に来た理由も含めて思い出していた。
そして、ふと思った。もしかしたら、本当に自分だけが楽しみたい場所に、今までの人生の中で果たしてどのくらい行ったことがあったんだろうか、と。
5月の終わりにさしかかっていた頃で、Nさんの相談室には申し込みはしたものの、まだ受けてもらえるかどうかも分からない頃だった。
共依存
誰にも相談できない「ある人」との関係、それが自分を一番苦しめることになったのは、ネットでその人の行動を追い続けることが止められないでいたことだった。このとき、もうすでに3年間くらいずっと関わっていた。
傷ついていた。傷つけられた、このときはそうとしか思えなかった。どうして私がこんな思いを、とも。
堂々巡りをしていて、どうして、というのと、酷い、という気持ちが何度も何度も繰り返し駆け巡る。それ以外のことを考えられない。その、なんだか分からない苦しい状態からもう逃げ出したかった。逃げ出したいのに相手に執着していた。かつてはやさしかったその人との関係が苦しくなってきて、それなのにやめられない事が、何なのか分からなかった。人との関係で抜けられなくなる「共依存」は、専門のカウンセラーに指摘されないとなかなか気づきにくい。
まだ自分が相手に執着していること、そしてその意味もぜんぜん分かっていなかった。ただ、アルコール中毒や買い物依存と、基本は同じであり、心を快復させるためには、他の依存症状と同じく、まず最初に完全に依存を断つことからしかない、と、徹底して指摘している相談室のブログは、このとき体を動かすのに十分な原動力にはなった。このときは、助かりたい一心だったから、頭の中だけの理解は、結局、カウンセラーの言うとおりにしてみるしかない、だったとしても、少なくとも離れることが第一なのだ、と堂々巡りしていた思考を理解させる力にはなった。
やっと、離れるしかない、と思えたのだ。
なによりも、自分を楽しませる旅行にするならば、そんなネット環境から離れないではありえなかった。ルアンプラバンを選んだのは、豊かな自然と、できれば徒歩で観光できる街でたくさん歩きたかったからだ。けれど、ラオスもまた、車社会だった。日本の都市部の街のようにはいかない。結果的に、中心地から少し離れた場所に宿泊して、少し予想とは違ったけれど、それでもよりはずっと小さく静かなルアンプラバンの街を、ひととおり歩けたのは、やっぱりネット環境から強制的に離れたことが大きかったと思う。早い話が、やることが他にないからだ。
体を動かしたことで、部屋にもどれば切り替えが出来て、ベランダから見える美しい田舎の景色に慰められ、10日間は駆け足で過ぎていった。
この頃書いた日記をぱらぱらめくってみた。
短い旅行で、なにか大きく変わったことがあったわけではないけれど、ネットもテレビもない部屋で日を過ごすうちに、だんだんいろんな過去の記憶や思い出が出てきていた。中でも、子供の頃の家族旅行の楽しかった記憶をたびたび思い出すと書いてある。インナーチャイルドでもおなじみの過去の「悲しい記憶」が出てくるような気がしていたところが、意外だった、と。
そう、この旅行では、なぜか子供の頃の幸せだった旅行の思い出を、ぼーっとしているときなど唐突に、たびたび思い出していたのを確かに覚えている。
街に出ている間は飼っている猫が留守の部屋を守ってくれるホテル
3人目のカウンセラー
「それは、心のレイプと同じですよ」
と、スカイプの電話の向こうから聞こえるカウンセラーの声を、少し冷めた感覚で聞いていた。N相談室の最初のカウンセリングだった。幼少からの母との関係を話している時だった。
ルアンプラバンから帰って、すぐに開いたメールの中に、N相談室のカウンセラーから返事が届いていた。うっかりしたことに、10日間、ネット環境から離れることばかりに気が向いていて、緊急のメールとかが来たらどうしようとか、何も考えずに旅立っていたことに、この時になってやっと気がついた。幸い、緊急のメールはなかったけれど、相談室からは返事が届いていたのだ。
最初に、しまった、と思ってから、それでも返事が届き、カウンセリングを受け付けてもらえると知って安堵と喜びが胸に広がった。そして一週間を待たずスカイプカウンセリングの予約になった。
あまりに長い間、仮面をかぶって生きていると、もうそれが自分の本当の顔だと思いこんでいる。
人は、自分の心が壊れてしまわないように、感情を麻痺させることで、その辛さ苦しみから自分自身を守るのだ、という。かぶって生きてきた仮面は、やがて、本当の自分自身だと思うようになって成長する。感情の麻痺は、苦しかったり悲しかったりの気持ちだけでなく、そのうち、楽しさや喜びの感情までも麻痺させてしまう。
でも、このとき私が話したその話は、このときの私は確かに、一笑に付すようなどうでもいい話にしか思えていなかった。なぜ、そんなところで反応するのかが、ピンとこないのだ。そして、軽く流して次の話に移ろうとする私に、あまりに執拗に食い下がるカウンセラーに、もっと他の話を聞いて欲しいのに、とだんだん微かな苛立ちさえ感じていた。