本当の自分になるために 2 - はじめた心との格闘と小さな命の仲間
命の仲間
7Fの部屋のベランダから、毎朝、鳥の声を聞きながら朝日を見つめていたのもこの頃だった。
寒くて静かな朝だったことをよく覚えている。
そして、寂しくてしかたがない。
もうすでにこの世を去った両親。
誰もいない部屋。
近所に知り合いすらいない、知らない国の知らない街。
どうして、私の周りには誰もいないんだろう。
どうしてこんなところで、一人でいるんだろう。
どうしていつも気がつくと一人なんだろう。
なにもかも耐えられない気がしていた。
聞こえるのは澄んだ鳥の声、ほんの少しの風で揺れたかもしれない木の緑の葉。
そのとき、ふと、目の前の隣家の低い軒先に植えられた高い木の枝に、一羽の小鳥が止まっているのが見えた。
周りに何も遮るものがなく、葉のついていないひときわ高くアンテナのように空中に伸びている木の枝。一番てっぺんにとまって、私のほうには顔の左半分を見せながら、遠くの明けきらない空をじっと見ている。
枝は、7Fのベランダの高さよりやや低い程度だから、その空中の空間を、まるでその鳥と私だけで共有しているようで、東京の隙間なく立てられた家とそれほど高くない木々ばかりの街で育った私にとって、不思議な感覚だった。
どうしてそんな風に思ったのか、わからないけれど、そのとき、あの鳥も今一人なんだ、と思っていた。
つがいがあったかもしれないし、ヒナがいる巣が近くにあるのかもしれないのに、そのときはそんなことは浮かばず、ただ、今そのとき、確かに私の傍にあるひとつの小さな命が、一人で毅然と生きている、そんな風に思えた。
苦しさを嘆くこともなく、それはとても誇り高い存在に見えて、そんな風に鳥を見たのは、後にも先にもこのときが初めてだったけれど、なぜか猛烈に、私は一人ではない、となにかが湧き上がってくる。
ゆっくり、動かす視線の先に、緑をゆらす木の枝、器用に電線をわたっていくリス、やっぱり、ともに必死に生きる命の仲間なのだ、と本当になぜかそんな風に思えたとき、凍えそうだった内側の何かの一部分が、ほんの少しだけ、暖かいものが降りてくるのを感じていた。
焦る心、動かない体
この頃、ひんぱんに感じていた、一日のうちにたびたび襲ってくる窒息感にも似た不安感は、あとでそれは、記憶の彼方からやってくる怒りや憎しみ、悲しみ、それに絶望感が入り混じっていたものだったと知るのだけれど、自分ではどうすることもできないでいた。
タッピングというのを教えてもらったのも、この頃だった。読んでいたブログで見つけた無料スカイプカウンセリングなどいろいろ単発で試したりしているときだ。
いわゆる体のチャクラにあたる部分を、自分の指先で文字通り、軽くトントンたたいていく。
ガンで余命を宣告された人たちなどの間で、不安を取り除き精神の沈静効果がもたらされた報告などネットで見ることができるようだった。
少し効くような気がする、と思っていたと思うのだけれど、この頃の記憶は書いたものなどを見たりしないと、ところどころ本当によく思い出せないことがある。
よいとすすめられるものはなんでも試したときだった。
なるべく自然の多いところに身を置くとよい。
花や草や木を見て、綺麗だな、と思うだけでもいい。
楽しい映画を見たり音楽を聴いたりするといい。
そして、子供のころの楽しかった思い出を思い出したら、書きとめておいて、何度も見返す。
でも、どれも、思うように取り組めないのだ。さあ、やらなければ、と気持ちばかりが焦る。
自然の多いところに行かなきゃ
花や草や木を見たりしなきゃ
楽しい映画か音楽を聴かなきゃ
子供のころの楽しかった思い出、はやく思い出さなきゃ
まだ、“何も書けていない”
やらなければ、とノートを常に持ち歩き、音楽を聴いたりしたまま、でも、心はいつもそこにはなかった。
文字がつづれない。映画も本も入ってこない。
体は、まったく動かないままだった。
本当の自分になるために 1 - 気持ちを認める
本当の自分になるために 3 - 自己開示できない
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